動画「マザーテレサの隣人愛」(5/21)

2023年5月21日(日)に、大岡山教会の信徒説教を私が担当し、

     「マザー・テレサの隣人愛」

と題して、およそ22分のお話をしました。内容は、イエス・キリスト

を信じないユダヤ教やイスラム教やそのほかの宗教の人びとと、キリ

スト教は理解しあい共存するべきで、宗教を争いの種にしてはならな

い、とするもの。日本の教会の説教としてはめずらしい内容です。

 

 

 説教の動画は、以下でご覧いただけます。

 https://www.youtube.com/watch?v=4jpu6wqrZ3Q&feature=youtu.be 

 

 説教の全文(要約でなく)は、以下のようです。

 動画、説教全文ともに、拡散いただけますと幸いです。

 

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    マザー・テレサの隣人愛

 

    使徒書の日課  使徒言行録 1:6-14

            ペテロの手紙一 4:12-14、5:6-11

    福音書の日課  ヨハネ福音書 17:1-11

 

 

 今日の福音書の日課は、天の父なる神とイエス・キリストの関係について書いてある、重要な箇所です。

 

 イエスは弟子たちと共に、過越祭を前に、晩餐をとっていました。イエスはその席で、多くの言葉を語りました。そのしめくくりが、ヨハネ福音書17章の今日の箇所です。

 この箇所のポイントをまとめると、

 1)神はイエスに、すべての人間を支配する権限を与えた、

 2)だからイエスは、すべての人間に、永遠の命を与えることができる、

となります。

 天の父が、イエス・キリストをこの世界に送った。そこで、人間は赦され、救われ、復活して永遠の命を与えられます。これを信じるのが、キリスト教の信仰です。

 

 イエス・キリストが現れたので、人間は、永遠の命が与えられることになった。これはわかりました。

 そこで、質問。では、イエス・キリストがいなければ、人間は、復活せず、永遠の命も与えられないのでしょうか。

 

 ユダヤ教は、イエス・キリストを信じません。イスラム教も、イエス・キリストを信じません。では、ユダヤ教、イスラム教の人びとは、復活もしないし、永遠の命も与えられないのでしょうか。

 

 まず、ユダヤ教から考えてみましょう。ユダヤ教を信じる人びとは、復活もしないし、永遠の命も与えられないのか。

 人間が復活するかしないか。ユダヤ教にはふたつの考え方がありました。

 ひとつは、復活しないとする考え方。サドカイ人がこの立場でした。

 旧約聖書には、人間が復活するとは書いてない。人間は土から造られ、土に還る。聖書に復活すると書いてないのだから、復活しない。

 もうひとつは、復活するとする考え方。パリサイ人がこの立場でした。        天地を創造し、人間を造った神は、全知全能で、なんでもできる。神が人間に、復活しなさいと命じれば、復活する。そうに決まっている。たとえばエゼキエルは、枯れた骨の谷で、死者の骨がたちまち生き返って大勢になる、奇蹟をみたではないか。

 

 イエスの時代、ユダヤ教では、復活すると考える人びとのほうが多数派でした。

 では復活したら、永遠の命を与えられるのか。それははっきりしませんでした。

 

 イエスはラザロを復活させました。復活したラザロは、復活したけれども、永遠の命をえたわけではなく、そのあとほかの人びとと同じように死んだ。キリスト教ではそのように考えます。

 復活しても、永遠に生きるわけではない、と当時考えられていたのかもしれません。

 

 サドカイ人がイエスに、復活について質問します。「ある婦人が、夫と死別してはつぎつぎ再婚し、最後に婦人も死にました。彼らがみな復活したら、誰がその婦人の夫なのでしょう。」みなが一度に復活するのは、キリスト教の復活と同じです。そのあと、永遠に生きるという考え方なのかもしれません。

 

 エデンの園には、善悪を知る樹のほかに、生命の樹もありました。生命の樹の実を食べると、永遠に生きるのでしょう。アダムとエヴァは、その実を食べるといけないというので、楽園を追われて、死ぬようになりました。人間は、エデンの園で、永遠に生きられたのかもしれない。つまり旧約聖書には、永遠の命の考え方もあるのです。

 

 まとめると、ユダヤ教では、人間は復活するのかしないのか、はっきりしません。復活しても、永遠の命が与えられるのかどうか、はっきりしません。

 なおユダヤ教は、イエスの時代よりあと、復活にだんだん関心がなくなりました。

 

 ではつぎに、イスラム教。

 質問。イスラム教では、人間は復活し、永遠の命を与えられるのでしょうか。

 イスラム教では、人間は復活し、永遠の命を与えられると考えます。

 

 イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教と同じ神を信じます。アッラーです。アッラーはアラビア語で「神」という意味で、キリスト教の「天の父」のことです。そしてイスラム教は、イエス・キリストを信じません。

 

 イエス・キリストがいないのに、なぜ、復活して永遠の命を与えられるのでしょうか。 それは、アッラー自身が、そう約束しているからです。その約束が書いてあるのが、クルアーンです。

 クルアーンは、コーランともいいます。預言者ムハンマドが伝えた「神の言葉」です。

 イスラム教では、クルアーンを、聖書と同じようなものだ、とは考えません。

 クルアーンを、キリスト教の聖書以上のものだ、と考えます。

 イスラム教によると、旧約聖書も新約聖書も、預言者の伝えたアッラーの言葉ではあるのですが、完全ではありません。

 

 新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。パウロ、ペテロ、…。旧約聖書は、モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、…。のように、聖書を誰が記したか、名前がついています。人間の観点が入り込んでいます。

 

 それに対してクルアーンは、天使ジブリル(ガブリエルのことです)がムハンマドの耳元で、囁きかけたアラビア語がそのまま記されています。ムハンマドは意識を失っているので、人間の観点は入っていません。

 クルアーンで、神は、自分の言葉でしゃべっています。だからクルアーンは、アラビア語でなければならず、翻訳が許されないのです。

 このようにクルアーンは、文字通りの「神の言葉」です。神の言葉は、この世界のものでなく、神の一部です。ですから、クルアーンは粗末に扱ってはならず、大事に読みあげられます。クルアーンさえあれば、人びとは神と直接につながることができるので、イスラム教に教会は必要ありません。

 

 このように考えると、クルアーンは、キリスト教の聖書ではなく、イエス・キリストにあたるもの、であることがわかります。

 

 神アッラーは、クルアーンで、人間に復活と永遠の命を約束します。この世界と宇宙の真理を解きあかします。そして、人間が守るべき務めを命じます。一日五回、メッカに向かって礼拝しなさい。ラマダーン月に断食しなさい。ブタを食べてはいけません。アルコールを飲んではいけません、これらは、イスラム法とよばれます。

 

 以上をまとめてみましょう。

 ユダヤ教は、神ヤハウェを信じます。そして、復活と永遠の命にこだわりません。

 キリスト教は、天の父とイエス・キリストを信じます。そして、復活と永遠の命を信じます。

 イスラム教は、神アッラーを信じます。そして、復活と永遠の命を信じます。

 ユダヤ教とイスラム教は、イエス・キリストを救い主だと考えません。

 

 そこで、つぎの質問。キリスト教は、イエス・キリストを信じるのが正しい、と考えます。では、イエス・キリストを信じないユダヤ教、イスラム教は、正しくないのでしょうか。

 この質問は、大事です。よーく考えてみましょう。

 

 その昔、宗教が、争いの原因になりました。

 ヨーロッパでは長い間、ユダヤ人差別が当たり前でした。ユダヤ人は襲撃されて財産を奪われ、命からがら外国に逃げ出しました。

 十字軍は、イスラム教を攻撃しました。

 宗教戦争では、カトリックとプロテスタントが殺し合いました。プロテスタント同士も争いました。

 そしておよそ百年前、ナチスは、数百万人のユダヤ人をガス室で殺害したのです。

 

 いま世界は、「宗教的寛容」を掲げています。宗教的寛容とは、異なる宗教、異なる信仰が仲良く共存しよう、という目標です。歴史に学び、過去を反省したのです。

 また最近は、「多様性」の尊重も掲げています。多様性はダイバーシティ。LGBTQ+など、どんな個性をもつ人びとでも、どんな文化や信仰をもつ人びとでも、互いを尊重して仲間になろう、という目標です。そう。信仰が違っても、差別や対立をうんではならないのです。

 

 イエス・キリストを信じるのが正しい。ならば、イエス・キリストを信じないのは正しくない、になりそうです。

 イエス・キリストが福音を説き、人びとに復活と永遠の命を約束しました。その教えに従う人びとが、キリスト教。いっぽう、その教えに従わず、イエス・キリストを拒んだ心の頑なな人びとがユダヤ教。--そう、教会では教えてきました。新約聖書にもそう書いてあります。

 でも、これでは、宗教的寛容や多様性の尊重になりません。

 

 イエス・キリストを信じるのが正しい。だから、イエス・キリストを信じないのは正しくない、は正しいでしょうか。

 自分の信仰は正しい。だから、相手の信仰は正しくない、は正しいでしょうか。

 

 ここから先は、私の考えです。よければ、参考にしてください。

 自分の信仰は正しいから、相手の信仰は正しくない、のではない。

 相手の信仰は正しいから、自分の信仰は正しくない、のでもない。

 自分の信仰は正しいし、相手の信仰も正しい。こう考えていいのです。

 キリスト教は正しい。ユダヤ教やイスラム教も正しい。こう考えていいのです。

 イエス・キリストを信じるのが正しい。イエス・キリストを信じないのも正しい。こう考えていいのです。

 

 相手の信仰を正しいと認める。そして、自分の信仰が正しいとも信じる。このふたつを両立させる。信仰の違いを決して、争いの種にはしない。

 相手の信仰に興味をもち、理解する。そして、自分の信仰を深め、相手にも理解してもらう。それを、自分の喜びとする。できれば、相手にも喜んでもらう。ならば、信仰の違いは、争いの種にならない。むしろ、喜びの種になる。

 

 マザー・テレサは、キリスト教の信仰をもって、インドの町で活動しました。彼女が助ける人びとは、ヒンドゥー教徒です。さもなければ、イスラム教徒です。キリスト教を信じなさい、ではありません。キリスト教を信じないから、あなたがたは不幸で、救われないのだ、でもありません。信仰はどうあれ、同じ人間としてあなたを尊重します、です。それは、自分の信仰は正しいし、相手の信仰も正しい、なのです。

 

 自分と違った信仰をもつ人びと。それが、マザー・テレサにとっての隣人です。マザー・テレサの生き方こそ、いまの時代にふさわしい隣人愛ではないでしょうか。

 

 ユダヤ教やイスラム教の人びとが、何を信じているのか理解する。ヒンドゥー教や、仏教や、儒教や、そのほかさまざまな宗教の人びとが、何を信じているのか理解する。それには、キリスト教の信仰が役に立ちます。イエス・キリストを信じることがどういうことか、よく理解してはじめて、イエス・キリストを信じない信仰がどういうものか、よく理解できます。そして相手を、受け入れ、尊重することができます。

 

 神は、すべての人びとを造りました。キリスト教の信仰をもたない人びとも、そうやって造られています。そうしたすべての人びとと共に、自分も造られてあるのだと、神に感謝して生きる。宗教の違いを理解し、争いの種にしない。それが、イエス・キリストがわたしたちに教えた隣人愛だと思うのです。

 

 

   

 

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