説教「三位一体は愛である」(5/26)

2024年5月26日(日)に、東京都大田区の日本福音ルーテル大岡山教会で

信徒説教を担当しました。当日おいでいただいた皆さんに感謝します。

説教の原稿を、以下に掲げておきます。

 

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日本福音ルーテル大岡山教会・信徒説教      2024.5.26 

 

               三位一体は愛である

 

                 橋爪大三郎

 

           イザヤ書    6章1節~8節

           ローマ書    8章12節~17節

           ヨハネ福音書  3章1節~17節

 

 今日は三位一体主日です。

 今日の聖書の箇所は、三位一体に関係のある箇所です。

 

 三位一体とは何でしょう。

 言うまでもありませんね。父と子と聖霊は、実はひとつです。天の父と、そのひとり子イエス・キリスト。そして、父と子から出て人びとに注がれる聖霊。この三つがひとつの神である。この教えが三位一体でした。キリスト教の中心になる教えです。

 

 三つが別々で、でもひとつ。これは、理解しにくいです。3・イコール・1、なんて不合理です。理屈でわかろうとしても無理。三位一体は、キリスト教の大事な秘密で、神の恵みだと信じましょう。教会ではこう教えてきました。

 

 さて、ここで困ったことがあります。

 三位一体を、もう少し詳しく知りたいなあ。こう思って聖書を読むと、不思議なことに気がつきます。「三位一体はこれこれです」と、ずばり書いてある箇所がないのです。旧約聖書には書いてない。そして、新約聖書にも書いてない。

 

 あれ、たったいま、聖書の日課を読んだではないか。

 旧約聖書のイザヤ書の箇所(6章の1節から8節)は、預言者イザヤが天にあげられる幻をみて、神から予言をする役目を授かったと書いてあります。

 使徒書の、ローマの信徒への手紙の箇所(8章12節から17節)は、肉と霊についてのパウロの教えをのべています。ちょっとギリシャ風の説明です。

 ヨハネ福音書の箇所(3章1節~17節)は、人間が霊によって新しく生まれること、人の子によって人びとが救われることをのべています。

 

 これらは、イザヤの考え、パウロの考え、ヨハネの考えをのべただけ、とも言えます。言っていることがバラバラで、しかも、三位一体の教えそのものでもない。

 それでも、キリスト教会は、これらの箇所に、三位一体の教えがのべてあるのだとしてきました。

 

 三位一体が、キリスト教の正しい信仰だと決まったのは、ニケーア公会議のとき。西暦325年です。イエスの十字架から300年も後のことです。

 ニケーア公会議で三位一体が正しい信仰だと決まるまで、実にさまざまな考え方がのべられていました。それらは「異端」として、キリスト教会から一掃されました。

 聖書が書かれたのは、三位一体の考え方が成立するよりもずっと前なので、三位一体が書いてなくて当然です。キリスト教の歴史の、どの教科書にも書いてあります。

 

 ではなぜ、キリスト教会は、さまざまな考え方のなかから三位一体の考え方を選びとったのでしょうか。そしてそのあとずっと三位一体の考え方を、信仰の中心としてきたのでしょうか。

 それは三位一体が、自然な考え方だからだと思います。

 

 旧約聖書には、創造主である神が登場します。新約聖書には、イエス・キリストが登場します。使徒言行録には、聖霊も登場します。

 では、神と、イエス・キリストと、聖霊の関係はどうなっているのか。三つは別々にみえるけれど、そこには神の計画が貫かれているはずだ。初期教会の人びとは、そう考えたでしょう。

 そうすると、三位一体はしっくりします。父なる神と、子のイエス・キリストと、聖霊とがみな、同じひとつの神の現れだと考えればよいのですから。

 

 こうして三位一体は、キリスト教の特徴になりました。

 キリスト教ではない一神教(ユダヤ教とイスラム教)は、三位一体をとりません。ユダヤ教は、イエス・キリストを、救い主とも神の子とも認めません。聖霊も認めません。イスラム教も同じで、認めません。

 キリスト教は、三位一体を、正しい信仰だと考えます。そうすると、ユダヤ教、イスラム教は正しくない信仰だ、とみえてしまいます。

 でもこれが、問題を起こすことがあるのです。

 

 今年になってアメリカのあちこちの大学で、学生たちが抗議したり、学生グループ同士が乱闘したりして、問題になっています。パレスチナをめぐって、ハマスとイスラエルが戦争になっているのが、直接のきっかけです。

 このハマス-イスラエル戦争を入り口に、キリスト教/ユダヤ教/イスラム教の関係を考えてみましょう。

 

 パレスチナを支持する学生たちは言います。イスラエルのやり方はいくら何でもひどすぎる。病院や学校や住宅を攻撃し、罪のない市民や子どもが犠牲になっている。ガザ地区二百万のパレスチナ人が迫害されている。これは犯罪だ。

 イスラエルは建国以来、パレスチナに対する犯罪行為を重ねてきた。そのイスラエルとのビジネスで儲けている企業がある。大学は、そうした企業から寄附を受け取っている。そんな寄附は断ってほしい。私たちは、血にまみれた寄附を受け取る大学に居られない。大学が正しい対応をとるまで、キャンパスで抗議する。

 

 いっぽうイスラエルを支持する学生たちは言います。ハマスがやったことを見なさい。武装した集団が突然イスラエルにやってきて、民間人を無差別に殺害した。女性や子どもなど市民を人質として連れ去った。許せないテロ行為である。反撃して、人質を取り返すのは当然のことだ。二度とこんなことがないよう、ハマスと戦うのは、自衛の権利ではないか。

 

 パレスチナの地にユダヤ人がやってきて、イスラエルを建国しました。そこに元からいたのは、イスラム教徒のアラブ人。パレスチナ人です。パレスチナの人びとは、土地を奪われ、独立もできず、苦難の道を歩んできました。これがパレスチナ問題です。

 

 パレスチナ問題のおおもとは、ヨーロッパのユダヤ人差別です。

 ユダヤ人はヨーロッパのあちこちに、少数民族として暮らしていました。そして、差別され続けてきました。スペインでもフランスでもロシアでも、繰り返し襲撃され、元いた場所を命からがら逃げ出しました。そしてついにドイツでは、ナチスの手で、六百万ともいわれる人びとがガス室で命を奪われたのです。

 

 なぜユダヤ人は、差別され続けたのか。それは、ユダヤ人がユダヤ教徒で、キリスト教徒でないから。イエス・キリストを認めず、三位一体を受け入れないから。キリスト教徒は、三位一体を受け入れないユダヤ教を、キリスト教より一段低い宗教とみなし、憎んだのです。

 同じ理由でキリスト教徒は、イスラム教を、やはり三位一体を受け入れない、キリスト教より一段低い宗教だと考えました。

 

 ユダヤ人は迫害されるたびに、よその土地に逃げ出しました。

 近代になると国境ができて、ビザがないと外国に逃げ出せなくなりました。ナチスに追われたユダヤ人は、ビザを求めて、領事館に列をつくりました。結局ビザが手に入らなくて、収容所に送られた人びとも多かったのです。

 いざという場合、無条件でビザを発行してくれる、自分たちの国が必要だ。これが、第二次世界大戦の教訓です。こうしてアメリカやイギリスをはじめ西側諸国の後押しで、イスラエルが建国されました。イスラエルは、世界中のユダヤ人にとっての命綱です。

 

 周辺のアラブの国々は、イスラエルの建国を認めなかったので、戦争になりました。イスラエルの人びとは武器をとって戦い、国を守りました。パレスチナの人びとは国をもつことかできず、苦難の道を歩みました。

 ですから、世界中に、イスラエルを支持する人びと、パレスチナを支持する人びとがいるのは、当然のことなのです。

 

 バイデン大統領は言いました。大学のキャンパスで、イスラエルを支持しようと、パレスチナを支持しようと、主張するのは自由である。アメリカは言論の自由の国である。でも、暴力はいけない。

 なるほど。正論です。ユダヤ教とイスラム教がモメた場合、言論で自由に主張してください。でも、実力を行使してはいけない。                     

 でもこれは、きれいごとではないでしょうか。現地では、戦争が起こっています。イスラエルの人びとが生きて行くには、政府が頼りです。パレスチナの人びとが生きていくには、政府が必要です。どうしても実力行使になるのです。

 

 この世界は不完全です。人間はあやまちを犯します。

 でも、少しでもよりよい、平和な世界を築くために、何かできることがあるはずです。私は、三位一体について考えなおすことが、その出発点になると思うのです。

 

 アメリカなどキリスト教の国々は、ユダヤ教を迫害してきた過去が後ろめたいので、イスラエルを支持しています。そのぶん、イスラム教に冷たくなっています。

 若い世代の人びとは、そのまやかしを敏感に感じとって、パレスチナを支持しています。

 

 こういう状況で、キリスト教徒にできること。それは、ユダヤ教、イスラム教をもう一歩深く理解し、その主張に耳を傾けることだと思います。

 そのカギは、三位一体を、キリスト教だけのものと考えないで、ユダヤ教やイスラム教にもあるのだと考えてみることです。

 具体的には、どう考えるのか。

 

 まず、創造主である神。これは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に共通です。

 

 つぎに、イエス・キリスト。イエス・キリストはなぜ地上に現れたのかと言えば、それは、神が人びとを救うため。神が人類を愛し、その愛を実現するためです。そのために、イエス・キリストが降誕する必要があった。

 では、ユダヤ教、イスラム教に、神の愛はないのでしょうか。

 神が人類を救おうという愛は、おおありです。旧約聖書はそのために、多くの預言者を遣わしました。コーランはそのために、預言者ムハンマドを遣わしました。ユダヤ教もイスラム教も、それを信じる人びとと神は、愛によって結ばれています。それが、イエス・キリストというかたちをとっていないだけです。

 

 では、聖霊はどうか。

 聖霊は何かと言えば、父なる神やイエス・キリストが目にみえなくても、人びとがつぶさに交流できる回路です。人びと一人ひとりに聖霊がはたらいているから、誰もが神にささえられ、神と対話し、神の恵みを受けることができます。

 ユダヤ教やイスラム教に、聖霊にあたるものはあるか。

 ユダヤ教やイスラム教を信じる人びとは、祈りによって、神とつながります。祈れば聞き届けられます。また神の言葉や神の意思が、伝わってきます。人びとは神と、こうした特別なやり方でつながっているのです。聖霊という名前こそありませんが、この交流のはたらきは、聖霊と同じです。

 

 結論として、ユダヤ教もイスラム教も、三位一体と口では言わなくても、キリスト教の三位一体と同じことを考えていると言ってもよいのです。

 

 どういうことか。

 キリスト教は、三位一体を大事にし、信仰の中心に置いてきました。これが、キリスト教の伝統です。これはよろしい。

 でも、だからと言って、三位一体の考え方をとっていないユダヤ教やイスラム教が、キリスト教より劣っているとか、正しくないとか、考えなくてもよいのです。ユダヤ教やイスラム教には、イエス・キリストや聖霊にあたる神の恵みが、豊かにあふれているのですから。

 

 こう考えれば、キリスト教は、キリスト教であるままで、ユダヤ教やイスラム教と、互いに敬意をもって、接することができます。相手を理解し、尊敬し、共感する能力をもつことができます。

 

 三位一体は、キリスト教の中心です。それは、信仰を守る柱です。でもそれを、ユダヤ教やイスラム教や、そのほかの宗教を攻撃する武器にしてはいけません。そのほかの信仰を拒否するつい立てにしなくてもよろしい。むしろ、それらの宗教と共感するためのアンテナにしましょう。

 

 共感することは大事です。

 イスラエルの人びととパレスチナの人びとが争っているとき、傍観者として冷淡に距離を置くのでもない。どちらかにやみくもに肩入れして、憎しみをあおるのでもない。両方の人びとに共感して、争いを自分のこととして悩み、苦しみ、悲しむ。争いを解決する糸口や知恵は、そこからしか生まれないと思うのです。

 

 ユダヤ教やイスラム教を信じる人びとが、その信仰ゆえに悩み苦しみ、困難な目にあっています。そんなとき、ああ、あれは彼らのことさではなく、気の毒な人びとだなあでもなく、自分のこととして考えることかできる。これこそ、平和の基礎だと思います。

 

 キリスト教を信仰する人びとが、こうした能力を深めるならば、この世界が、神さまの意思にそった、より争いのない、平和な世界に近づいていくと思うのです。

 

 

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